本は物である。

まずこれ。何某のソーシャルネットワーキングサイトに書いたやつ。

オープンソースワールド

オープンソースワールド

インターネットの存在がLinuxの急激な進化を可能にした!まさにその通りである。世界中の支援者達が挙って開発に力を貸したのである。オープンソースは信頼性の低いソフトではない。幾多の人間の目によって精査されたソースコードの塊なのである。オープンソースというビジネスモデル、それは天地が逆転するような発想だ。

はてさて「天地が逆転するような発想だ」と言い切るあたり我ながら若人の文体だ。だがまあ今回着目すべきはそこではなく、この書評は話題を電子書籍に強引に誘導するための導入文であることを白状しておく。
本書の内容のかなりの部分はweb上で読める。この著者も本で読もうがディスプレイで読もうが読者の自由だと宣ひている。個人的には本の方が読みやすいわけだが、昨今のAmazon Kindle出現などといった世相を勘定すると、「本」という「物」の地位も潮流が変わりつつあると実感させられる。などとまあ電子書籍の話題がHOTな時を見計らったかのように一冊の本が懐に飛び込んできた。
それがこれ。

本は物である―装丁という仕事

本は物である―装丁という仕事

まあ一言で言うと、面白い。筆者の仕事は装丁(そうてい)、一言でいうと製本をプロデュースするということ。製本されることにより、単なる情報の集まりが「本」という「物」になるわけだ。要するに「本と電子書籍は根本的に違います!」てなわけでタイトルがそのまま電子書籍へのアンチテーゼだ。
電子書籍に対して世間の態度はどうだろうか。あるものは「本などレガシーメディアに過ぎない。これからの情報化の時代では製本の仕事が縮小して当然だ!」と傍若無人な罵倒ぶりを誇示し、またあるものは「本で読まねーと覚えられねー。電子書籍が全盛になっても俺は本を買い続けるね!」と愛を叫ぶ。存亡の危機に曝された装丁屋からすると、読者はなんとも自由で無責任な人種に見えることだろう。
天に唾棄し地に嘯く自由を与えられた読者とは裏腹に、本書の冒頭に書かれている通り電子書籍化の波は装丁屋にとっては死活問題だ。ならばコンピュータ技術が本の敵だろうかというとそうでもない。例えば本の表紙のデザインひとつとっても今や電子化されたツールを活用しなければ仕事にならない。電子書籍は黒船的存在だが、最早コンピュータ抜きでは装丁屋は仕事が出来ない。勿論筆者自身もそれをよく理解しており、コンピュータ技術には敬意を払いながら論を進め、徒に電子書籍を卑下したりはしない。それでもまあ文字情報の電子化については幾つかの痛烈な皮肉を述べているわけだが。
さてその痛烈な皮肉ってやつの内容を紐解いてみようか。本書には次の引用節がある。

初期キリスト教において、書物が「巻物」から「冊子体(コデックス)」に写ったのは、パピルスからパーチメント(羊皮紙)へ、という基底材の変化のためばかりではない。「ローマ政府から禁じられた文献を、衣服の中に隠して持ち歩くのに好都合」で「ページ番号が付されていたので、読者は読みたい箇所を簡単に探し当てることができた」(『読書の歴史』あるベルト・マングェル)からなのだ。
(『書物について』清水徹、89ページ)

しかしながら「冊子体(コデックス)」の流れに逆行するようにwebや電子書籍の世界ではページ概念の消失が進んでいる。中には縦書き横書きの表示や文字の表示サイズが自在に変えられるといったものもある(後述のiPadのことだ)。twitterに至ってはなんだ。まさに木簡・竹簡という極めて旧世代的なテキストに逆戻りしているのである。それが大受けして人的ネットワークの構成手段ともなっているのでほんま何があるかわからんわ。おっと失敬、本書はそこまでは言っていない。
いくら皮肉を言ったところで、出版業界における問題点も垣間見ることができる。4割返本は当たり前。今や半分近くの書籍が行き場がなくなって裁断されてその一生を終えるのである。裁断するのは出版社自身だ。巷でよく言われる出版業界の闇というのは返本が日常茶飯事となっている状況を指摘しているのではないかと思われる。あまり業界には詳しくないので突っ込んだ議論は避けておく。
リアル書籍が電子書籍に勝る点として意味記憶としての優位性を筆者は挙げている。余白や書体や表紙のデザイン若しくは読んだときの環境と関連付けて意味記憶を形成し易いと筆者は言う。iPad電子書籍は文字の大きさも縦書き横書きも読む者の好みで自在に変更可能だ。こんなものにページ概念など無く、書籍としての意味記憶はどうやって作ろうかと筆者は言う。しかしこれには若干の屁理屈を付与しておきたい。電子書籍を読んだ場合には意味記憶が形成されないのではなく、電子書籍を通じた意味記憶形成の方法を現代人は十分に訓練されていないといった方が正しいだろう。電子書籍を用いた読書のどこに意味記憶を見出すべきかという体験の不足だ。電子書籍を主体としたい方は意味記憶の適切な形成方法を訓練すると宜しかろう。即ち、ディスプレイを通じて文字を読む際に何を読書体験の特徴点として抽出するかが電子書籍時代の「読む技術」となるのである。
とはいってみたところで個人的には電子書籍読書の意味記憶形成を訓練しようとは思わず寧ろリアル読書の方が愉しみが大きいと感じる。それよりも何よりも仕事でPCと睨めっこが当たり前のこのご時世で読書くらいはPCを離れたいのが心情だ。